2018/08/24

開化堂のこれまで。

2018/08/24
今回は、開化堂の歴史を少し振り返ってみたいと思います。

今でこそ、テレビや雑誌などで取り上げて頂く機会も増えて、多くのお客様にお茶筒をお買い上げいただけるようになりましたが、今までの開化堂のことを、祖父母や父から聞いた話で振り返ってみると、常にそういった順風満帆ではありませんでした。


第二次世界大戦では、金属類回収令が発令され、お茶筒の材料自体が統制品にかかる中、食べていくためにこっそりとお茶筒を作っていたのが発覚し、逮捕される事もありました。終戦を迎えた後も海外からの機械製品の波に押されて、薬屋さんをやりながらお茶筒を作っていたようで、大変厳しかったようです。機械製は良いもの、手作りは古臭いもの、そんな風潮だった時代でした。

ただその中で悪い事ばかりではなく、「お前んとこはえぇもんだけ手で作っとけ、うちが買うたるさかい」と応援していただけるお茶屋さんもあり、何とかやってこれたようです。自分のプライドもあったのでしょう、また資金の面もあったのかもしれません。機械製にはせず、手作りで気密性や使いやすさを出すことにこだわって作ってきました。

そうするうちにじわじわとお茶筒を買っていただけるお店さんが増え、お茶筒だけを作ることで生計を立てられるようになりました。さらにありがたいことに天皇陛下献上の機会もいただきました。その頃は名古屋から西、山陰瀬戸内地方に地道に売り歩いた時代でした。




今度は、大量生産・大量消費の時代に入っていきます。その波は開化堂にもやってきます。QualityよりもQuantityを求められる時代となります。相対的な売り上げは上がる一方、数も求められる時代になりました。手作りだけど、安く大量に作ることを求められる。しかも相手は低コストで作れる機械製品。何とか値引き交渉にも耐え頑張ってきたところにバブル崩壊が・・・。

そんなことを肌で感じている5代目である父からすると、跡を継がせることを勧める気にはなれなかったようです。「こんな仕事あかんようになる。サラリーマンしとけ」と言われ、特に疑問に思う事もなく一般企業に就職しました。

日本のお土産物を海外からの旅行者に販売する仕事をしていた時に、とあるお客さまがお茶筒を買い求めるのを目にします。ふと感じることがあり、何に使うのかと聞いてみました。するとその答えが「キッチンで使うわ」だったのです。お土産としてだったら何も感じなかったかもしれません。自分の暮らしの中で使いたいという返答を聞いて、日本だけじゃなく他の国の文化にも受け入れられるかもしれない、売れるかもしれないと思いました。その瞬間から家業を継ぐということが自分に降って湧いてきました。

その後、茶筒作りを父から学び、卸中心の販売形態から一般のお客様に買っていただけるように見直し、店舗を構え国内で実演販売をし、海外への販路も開拓していくようになりました。




駆け足ですが、開化堂の流れを紹介してみました。

もし祖父が手作りのお茶筒を作ることを諦めていたり、父が質より量の時代に合わせていなかったら、今の開化堂はないと思います。

今、自分たちが感じることとして、背中に父や祖父を感じ、同時に自分の子供のことも考える。そんな時に何が重要で、何にこだわって、次に何を繋げていくのかを自分中心ではなく、考えることが大切なのではないかと思います。

それを考える時には、お茶筒を作ることの中で教わったことだけでなく、日常の暮らしの中で教わった開化堂らしさこそが、大事なことだと感じています。


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